映画と生活

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髪の毛と『チチを撮りに(2013)』

 髪の毛が荒れている。痛んでいるという意味よりは、伸びっぱなしで、整えられていないという意味合いだ。元々、サラリーマンにしては長めの髪であること(耳はもう10年以上出していない。だからどうした)に加え、パーマをあてること早10年。幸にして毛量があることを武器にして、カーリーヘアーを自身のパーソナリティーとして保ってきた。(会社では、ちりちり。くるくる。モジャくん。などと呼ばれている。親しみがこもっていると思っている。そうだと信じている)

 

 自粛期間、もちろんなかなか美容院には行けない。髪は自粛を知らずぐんぐん伸びる。(もはや生えてることがありがたいが)古着屋でアルバイトをしている大学生のように伸びた髪。セルフカットを試したり、センター分けをしてみたり、色々と試行錯誤をしていると、緊急事態宣言は終わった。

 

 いつもの美容院で、いつものカットとパーマを。うんいつもの仕上がりだ。翌日、久々に出社をすると次々に言われる。

 「髪、相変わらずだね。美容院行けないもんね。」

 「伸び散らかしてるな。そろそろ切れば?」

 こう言われては、昨日切りました、とは言い出せないものである。いつも通り切って、整えたつもりでも、結局パーマでぼさぼさしているので、久しぶりに会う人にとっては、整っているようにはまったく見えないのだな。滝藤賢一さんみたいなはずなんだけどな。(髪型だけでもせめて)

 

 ということで、滝藤賢一さんで思い出すのは、こちら。(無理やり感すごいな)

 

チチを撮りに
2012/日本

 

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映画『チチを撮りに』予告編

 

あらすじはこちら

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012で監督賞を受賞した家族ドラマ。フリーターの姉・葉月と女子高生の妹・呼春は、父親が14年前に女を作って出て行ってしまって以来、母の佐和と3人で暮らしていた。ある日、佐和から「お父さんがもうすぐ死ぬから会いに行って、ついでにその顔を写真に撮ってきてほしい」と頼まれた姉妹は、困惑しながらも、ほとんど記憶に残っていない父親に会いたい気持ちもあり、電車を乗り継ぎ父親のいる田舎町へやってくる。2人はそこで、異母兄弟の少年や叔父に出迎えられるが、すでに父は他界しており、さらに思いがけない人生の修羅場に遭遇する。

引用元 映画.com

 

 「湯が沸かすほどの熱い愛」で知られる中野量太監督の初期の一本。共感し、微笑み、涙する、彼の家族モノとしては、こちらも見逃せない一本だ。

 

 タイトルにある、チチとは、残念ながら乳ではなく、父。お父さんだ。遠い昔、他所に女性をつくって出ていった父が、どうやらもうそろそろ死ぬらしい。連絡を受けた母は、娘たちに、最後に写真でも撮ってきてと頼む。姉妹は新しいデジカメを携えて、父の病院へと向かう。

 

「シーンと目的ってなに?」

 道中、初めて扱うデジカメに触れながら、姉妹の会話にこんな言葉がある。

 たしかに、デジカメには数多くの撮影するシーンと対象を規定する目的が選択肢として用意さされていたのを思い出す。

 

 晴れた日に、スポーツを。

 雨の日に、植物を。

 夜に、景色を。

 こんなところだろうか。

 今回の場合は、

 病院で、死ぬ直前の父を。

 もちろんそんな選択肢があるはずもない。大事なことは、この言葉によって、この旅の本質を考える機会が与えられたということだ。姉妹もぼくも頭を悩ます。

 

 出発前、道中、旅先、帰宅後。

 4つのシュチュエーションを経て得られる母娘の関係性は、家族の幹を、太く強く、揺るぎないものにする。そこには、観るものに共感と感動を、そしてほんの少しの憧れを残していく。いい映画だったなと感じさせる。

 

 旅先にて、父の弟を演じる滝藤賢一さんがいる。再見すると、記憶とは曖昧なもので、ここでの滝藤賢一さんの髪型は、いたって普通であった。荒れ果てた、くるくるヘアーではなかった。つまり、ぼくと同じ髪型ではなかった。いい加減、髪型変えようかなと思った。